海辺のカラス

四国高松で暮らすことになった僕の家出少年的日誌と釣行記

可愛いが言えない少年、好きが言えない大人②

その①はこちら

本題に入る前に、なぜ僕がこんなまどろっこしいことを延々書いているかというと“書くこと”への好奇心と不安からなのだ。

例えば、好きな音楽について文章にしたい!となったとする。そこにはどの部分に惹かれたのか、それを聴いてどんな気持ちになったのか、どんな情景を思い出すのか、MVのここが好き!など、純粋な感想を言語化したいという好奇心がある。

一方で、僕はコード進行だの、何分の何拍子だの、ギターがフェンダーのなんとかだの、どの海外アーティストに影響を受けてるだの、この抽象的な歌詞の解釈はボーカルが当時の彼女を妊娠させてしまったときの心情だの、そんなのいっさい知らん!

ネットでレビューを検索すると後者のような記事がいっぱい出てくる。もちろんそれも面白く読んでいるんだけど、じゃあ僕みたいなよく知りもしないもんが好奇心だけでレビュー書いちゃいかんのかなぁ、と不安になるのだ。

■好き=アイデンティティー?

さて、思春期を乗り越え「可愛い」への抵抗が小さくなった僕に立ちはだかったのは「好き」を言葉にするハードルであった。

それまでは別に特別なことじゃなかった。

「ラーメンは好き、とろろ昆布は嫌い」だったり、
「読書は好き、数字は嫌い」だったり。

ただそれだけのことだったはずだ。

しかし、歳を重ね、「なんだ、ここ家系謳ってるけど酒井製麺じゃないんだ」とか「『カラマーゾフの兄弟』読んでないやつは読書好きとは言わない」みたいな人間が周りに現れるとだよ。不用意に好きとか言えない空気になってくるんだわ。
あからさまに攻撃的な態度でマウントとってくる野郎は論外だとして、普通にいい奴もいるから精神衛生上よろしくない。まるでこっちが出木杉くんに嫉妬するのび太くんじゃないか。

BUMP OF CHICKENが得意だったことを忘れちまったのはもっと得意な奴がいたから、みたいなこと唄っていたけど、ほんとその通りで。自分の知識や技能は『好き』と表明するに足るものなのか。己のアイデンティティーはどこにあるのか。

■『好き』は尺度じゃない

しかし、ある時ふと、こんなことをしているのは《あなたは誰が好き?》と聞かれた場合、答えられるようにするためではないかと気付いてしまったのだ。
出典ー北村薫,『夜の蝉』,東京創元社,1996年,P.50

日常ミステリー小説『夜の蝉』の一節。主人公のちょっと醒めた女子大生が、中学時代にアイドルの写真を引き出しに入れていたことを振り返る場面である。「好き」を言えなくなる過程において僕のたどったものとは少しちがうが、この感覚もわかりすぎて胃がキュっとなる。アイコンとして好きを表明していたが、ふと冷静になったときそこに実態がないことに気付いてしまった、という感じだろう。

主人公はその後、物語の端々で人の盲目的な一途さに出会い、思いを巡らせ、自分に欠けているその生き方に反省したりもする。僕は『好き』というのは自分がどれだけ夢中になっているかの指標であり、他人と比べる尺度ではないと気づかされることになる。美味いラーメンを食ってるとき、味に感動していればそれはもう好きなのだ。

好きなものを自信もって好きと言えるように。
自分にも他人にも寛容に、そして懸命になりたいなと思う。