海辺のカラス

四国高松で暮らすことになった僕の家出少年的日誌と釣行記

可愛いが言えない少年、好きが言えない大人①

好きなモノを素直に好きと言えない問題について考えると、並行して少年期~思春期のある事象を思い出すことになる。

それが「可愛い」言えない問題だ。

男子たるもの、そうそう人前で「可愛い」などと発言することはできない。
僕の場合、特に小学校高学年~中学時代にかけてこの傾向が強かった。

これには2通りの理由があるように思う。

■理由その1:女なんかに興味ねーというポーズ

第1に可愛いの対象について。

男子が可愛いと感じる対象は、もう言ってしまえば女子である。
まぁ動物とか赤ちゃんとかあるっちゃあるわけだが、日常生活において様々なモノや事象にまで可愛いを連発する女子とは根本的にちがうのだ。関係ないけど、クラスの全っ然目立たない地味で控えめな子が文化祭でステージに上がったりしたとき、大声で「可愛い~~!」って叫ぶ女子。あれなんだろうな、ムカつくな。

話が逸れた。思春期男子にとって、女に興味があるというのが公になるのは絶対に避けたいことである。なので「可愛い」は言わないに越したことはない。

しかし一方、クラスのなかで徐々にこれが逆転していくのもこの頃である。

僕が中学のころは、折しもモー娘。全盛期。猫も杓子もロッカーの中にポスター貼って可愛い可愛い。まだガキの僕には理解しがたい光景だったわ恥ずかしい。肉体的にも精神的にも成熟してくれば可愛いは自然と言えるようになるのだ。

ちなみに、このあと高校卒業するくらいまでにかけて、僕らと同じかちょっと歳上の可愛い人がメディアに続出する。宮崎あおい長澤まさみ堀北真希石原さとみ戸田恵梨香新垣結衣・・・etc. マジで盆と正月とGWが一度に来てたからなあのとき。男子校だったのもあって、僕も次第に可愛いが言えるようになっていった。YUI超好きだったなー。初期の目つき悪かったときとか特に。

■理由その2:否定・批判の回避

第2に、こちらの方が重要なのだが、己の心のスキを見せる行為だということ。

可愛いと言うことは、自分の弱い部分をさらけ出すのと同義である。それを露わにすることへの警戒心。この年頃といえば自我が強くなってきて、他人の価値観を否定するような発言をする者が現れるころだ。

誰しもあるでしょ、友達んちで卒アル見ながらクラスのマドンナとか当時好きだったひと問い詰めた挙句、「可愛くねぇーw」とか言ったり言われたりしたこと。地獄。だれも得しない遊びすんなよな。楽しいけど。

さらけ出した部分への否定は、イコール自己そのものへの批判として捉えられうる。これは非常に怖い。

ただ、さらに歳を重ねるとこれについても大したことではなくなってくる。「可愛い」はただの感想であって、そのものへの思い入れや、己のアイデンティティーとは別モノであることに気づくからだ。

料理が美味しいか、美味しくないかに近い気がする。たしかに美味しくないものには惹かれないが、カレーを美味しいと思うからといってカレーが好きかと言えば別問題なのだ。こうして可愛いと言うことのハードルは下がっていった。

しかし、それと反比例するように次の問題が頭をもたげるのだ。
そう、カレーを好きだと思ってしまったケースである。