海辺のカラス

四国高松で暮らすことになった僕の家出少年的日誌と釣行記

もしかしたら彼女たちは誤解されているのかもしれない/『欅坂46 Live at 東京ドーム ~Arena Tour 2019 FINAL~』DVD

さかのぼること2ヶ月ちょっと前。

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買ってしまったよね。『欅坂46 東京ドーム ~Arena Tour 2019 FINAL~』のDVD。

これまで、自分はアイドルなんぞに興味ねぇと言い聞かせ続けていた僕としたことが。発売初日。がっちり初回限定版。そして観て号泣。なんだよこれ。

ちょっと衝撃すぎてこれまでうまく消化できていなかったのだが、ドキュメンタリー映画も延期になっていることだし、いまのうちに自分なりの解釈をまとめようと思う。

以下、ニワカによる戯言である。たぶん長くなる。

■この作品を観たときの背景

本題の前に、これを観たとき前後の状況についてまとめておきたい。

まずグループに関しては、2019年9月18日・19日に初の東京ドーム公演が行われ、12月半ば?くらいに「2020年1月29日円盤発売」が告知された。そしてファンやオタクがワクワクしながらその日を迎えようとした矢先、絶対エース平手脱退・鈴本織田卒業・佐藤休業。そして翌週に円盤発売という流れである。

「どんな気持ちでDVD観ればいいんだよ!」とけやオタの友達が即LINEしてきたが、結果としては4人がグループを離れるのを知った上で観ると、とてつもなくエモいという効果を生み出している。

僕個人もこの期間けっこう激動で、仕事で病み、あらゆることに興味がなくなり、医者に行き、仕事を辞め、引きこもり、なにかしなきゃと連日釣りに行き、四国へ旅に出て、高松でやりたい仕事が見つかり、応募しようとまさにしていた頃のことだ。

そんなときに出会った作品の感想であることを頭の片隅に置いて進んでもらえたらと思う。

■この作品で描かれているもの

一般的にこのグループの楽曲やパフォーマンスは、大人社会への反抗や糾弾をテーマにしていると評されることが多い。僕もこれまでそう思ってきたし、歌詞も楽曲も演技も普通のアイドル像にはないシリアスなものであることは論を待たない。

しかし、今回の作品を観た印象は少しちがうものだった。

僕が感じたのは、このグループの、そして“てち”こと平手友梨奈という人物のどうしようもない不器用さ。そして、それゆえ自我と集団社会のはざまで揺れ動く己の葛藤を描いているんじゃないかと。

なぜそう感じたか、特に印象深かった曲の感想とともに綴っていきたい。
(ちなみにこの作品以外の公演は生・円盤問わずフルで観たことないので悪しからず)

■序盤~シリアスゾーン①~

*オープニング

ひとり物憂げな表情で廃工場へ入ってくるてち。すごく綺麗に撮るな。映画みたいだと思った。これを最初にもってくるということは、やはり全体的なストーリー性があるとみていいだろう。

*ガラスを割れ!

欅のなかで、最初にハマった曲。MVがすごく好き。2番サビの後半と、ラスサビのてちが何発も殴るとこ。セトリ的な理由もあるかもしれないが、この公演では少しテイストがちがう気がする。攻撃というより鼓舞や煽動するような強さ。主語が“俺たち”だし、自らも煽る対象なのかなとも。

*Dance Track(2つ目)

交通標識をモチーフにし、繰り返す日常に流されていく人々の様子を表現したようなパフォーマンス。このトラックこそがこの公演のテーマというか、ストーリーを決定づける部分なんじゃないかと僕は感じた。

途中、やらされているように仕事や勉強に追われる人々の群れを、てちが外側から眺めるシーンが出てくる。ほかのメンバーは機械のようだが、てちにだけ無表情ながら感情があるように見える。自分らしく生きられない人々を見下しているのか。僕はそうは受け取らなかった。

平日の朝、満員電車を反対のホームから見送るときのような複雑な感情がそこにはある。
これまで自我を出さず、社会に流される人々に対して「それでいいのか」と歌ってきた欅坂。しかし、そこから脱出した人間もまた葛藤を抱えることになるのだ。流されているように見えて周囲に溶け込み折り合いつけてうまくやっていける人と、そこに入っていけない不器用な自分、どちらが幸せなのだろうか。

答えが出ないまま、結局は無感動な人の群れに飲まれ、作られた“学校ごっこ”のような世界『Student Dance』に突入していく。

*エキセントリック

続く3つ目のDance Trackで、ひとりもがく平手、そしてグループがたどり着くひとつの回答。それが“変わり者でいい”である。

この曲、ラップ部分の歌詞が聴いてて恥ずかしくなるくらい直接的なので、あまり好きじゃなかったのだが、印象がまるで変った。めちゃくちゃカッコイイじゃないかよ。あと曲がとってもいい。前奏のメロディーがとてもエモくて、それが最後にまた流れる瞬間、鳥肌が立つ。

■中盤~可愛いゾーン~

*世界には愛しかない

冒頭からてちが不本意そう。たぶんこの人は表現の、もしくは気持ちを持っていく方向の得意不得意が大きく、こういう方面が苦手なのかもしれない。なんともモヤモヤした気持ちになるのだが、続く土生ちゃんの懸命さのギャップにやられる。でもきっとこの人は不器用側。次のぽんの方が器用というか、演じられてる気がする。

さらに2番のゆっかーが放つ「嫌いじゃない!」。このパワーがすごい。一気に画面が明るくなった気さえする。あと鈴本かっこいいなマジで。

しかし、それでも最後はまたモヤモヤで終わる。詩を読み上げる本人がいちばん“自分の気持ちに正直”とは思えないし“すがすがし”くもなさそう。

*青空が違う

アイドルアイドルしてて、あまり好きなタイプの曲じゃないなーとはじめは思っていたのだが、これ楽曲すごくよくないすか。ゆっかーソロの「私が~~~押~しか~け~た~」のメロディーと声、めっちゃ好き。

あと頭んなかお花畑なキャピキャピ女子視点なのに、いきなり歌詞に「秩序のないエゴ」とか入ってくるのがグッとくる。ただキスのくだりがやりすぎでちょっと下品かな。

*制服と太陽

グループを離れる前に演じているメンバーがいるとわかって観るとかなり切ない。特にしーちゃん。平手を見る目とか、そこかしこに寂しさが溢れてる。気がする。これは後にも書く。

*二人セゾン

この辺から衝撃が加速する。これも欅のなかでは可愛い系の曲なのではじめピンとこなかったのだが、美しくていい曲だな。好き嫌いでなく、曲の良さならトップクラスじゃないかな。2番のBメロが特に好き。

いちばんの見どころはやはりCメロのてちソロダンス。圧巻。そのあとグループに背を向け、向き合い、歩み寄るところに集団とそれに対する個の構図がみえる。最終的には同化しないわけだが。

*キミガイナイ

欅のなかでも好きな曲。パフォーマンス的に特別僕が書けることはないが、とにかく演出と映像が綺麗。噴水すげーな。1番のサビ前のみぃちゃんがゾッとするくらい綺麗。

*もう森へ帰ろうか?

これも演出がすごい。スクリーンの大きな木と、会場を埋める緑のペンライトで楽曲の世界観へ没入できる。マジで森。

Dance Track②との対比で見ると、こちらは機械のような自我をなくした状態の集団から、血の通った自分に戻ってくるような感じ。“森と都会”というイメージしやすいものによって、自分が求めた自我とはなんだったのか、どこへ向かえばいいのかの葛藤が描かれる。森のなかで迷子になった気さえしてくる。

*結局、じゃあねしか言えない

サビの一部分以外ちゃんと聞いたことがなく、まったく印象になかった曲。これ・・・めちゃくちゃいいな。Bメロ~サビのメロディーが切なすぎる。普通に泣いた。

あと、これもそれまで印象の薄かったしーちゃんが、すごく魅力的だと気づいたトラック。この人はすごく自然な表情をするなぁ。どこまで演技なのだろう。休業で“じゃあね”すると知って観ると、本当に寂しそうに見えてしまう。

■終盤~シリアスゾーン②~

サイレントマジョリティ

ここへきて、このグループが最初期から訴えてきた「支配されるな」「らしくあれ」。

しかし、いまの欅坂が表現すると昔とはかなり印象がちがう。なにかもうちょっと深い意図があるのかと思ってしまう。

*避雷針

大好き。これだけは言っておく。

これは平手にむけたメンバー視点の曲・パフォーマンスなのだろうか。いろいろな解釈が沸き上がって答えはでない。ネガティブな“君”は本当に不幸なのだろうか。救おうとする“僕”は本当に助ける側なのだろうか。器用なのは、または自分らしく生きているのはどっち側の人間なのだろう。“愛の避雷針”は結局君を護れたのだろうか。

アンビバレント

てちが覚醒する。この人の目に光が宿るだけで、こんなにも人の心を動かすものなのか。そして鈴本はじめ周りのメンバーによるキレッキレのダンスがきっちり帳尻を合わせる。二律背反を謳いながら、すでに迷いはないようにも感じる。

*風に吹かれても

ノってきたところで爆発。全員むちゃくちゃ楽しそう。

深く考えることを止め、気ままに生きることを選択。そのタイミングがぴったり。もうここでは平手は集団に溶け込んでいる、あるいは集団そのものがそっちの世界から平手のいる側へ抜け出してきているのだろうか。個人的にこのライブのベストパフォーマンス(アンコール除いて)。

*太陽は見上げる人を選ばない

これも実はちゃんと聞いてこなかった。地味だけど、こんないい曲だと思わなかった。このあと表舞台から姿を消し、そのまま卒業することになる鈴本が泣いているのがとてもグッとくる。

歌・パフォーマンスともに、やはり集団は個々の集まりであり、グループを形成していても構成しているのは自我をもつ1人の人間だ、というところに着地しているように思える。器用な人にも不器用な人にも、周囲に馴染める者にもそうでない者にも、流されて己を失っても世界のどちら側にいるか行き惑っても、どんな人にも太陽は輝くというメッセージはすごく温かい。

■アンコール

*不協和音

と、いい感じで丸く収めてからのこれ。それまでのすべてをぶち破る「僕は嫌だ」。

まるでここまでのきれいなストーリーすらも大人たちが敷いたレールだと言わんばかりの破壊。マイクを通してちゃんと声が聞こえることで、シャレにならない攻撃性を発している。表現による暴力。これじゃここまでの積み上げ、温かい着地がまるでおままごとじゃないか。吐きそうなほどの衝撃。なぜ泣いているのか自分でも理解不能

*角を曲がる

もうこの曲・パフォーマンスが欅坂46平手友梨奈の答えなんじゃないだろうか。

あまりに真に迫った表現に呼吸が止まる。感動なのか、共感なのか、同情なのか、この涙がどこからくるのか全然わからない。他人が作った曲だからといって、自分の表現にできないわけではない、と思う。本当に、この人自身の言葉なんじゃないかという説得力がある演技。

結局、不器用なまま、集団や社会との擦り合わせが上手くできず自分を肯定しきれないまま、公演は幕を閉じ、そして彼女自身もその後現実的にグループを離れることになる。

■アイドル欅坂46の表現する不安定さの魅力

 あくまで僕の感想だが、このライブで表現されているのは『世界に馴染めず集団の外側にいる個人、そして集団の中にいるそれぞれの人々が、もがき続ける葛藤』である。

『大人の決めたルールに支配されるな!教室という“空気”に流されるな!自分らしく生きよう!』という強さではなく、自分の正しささえ疑い、脆ささえ感じるほどの不安定さ。曲自体は演ってないものの、これ『黒い羊』を2時間やったみたいなことじゃないかなと。
ちょうど自分の道を見失い、社会の“外側”に出ていた自分にとって、この作品を観るのは非常に精神的エネルギーを使うことだったが、同時に闘う勇気をくれるものでもあった。

アイドルというものにまだ気恥ずかしさを感じる僕としては、手放しで賞賛することにためらいもあるのだが、むしろこれはアイドルでなければ表現できないパフォーマンスなのかもしれないと考えてもいる。

上手い歌を聴きたければそういう歌手がいる。反骨的で尖ったサウンドを聴きたければそういうバンドがいる。カッコいいダンスを見たければプロのダンサーによる公演が山ほどあるし、素晴らしい演技が観たければちゃんとした役者の出ている舞台やドラマを観ればいい。面白いバラエティーを望むなら芸人100%の番組がいいに決まってるし、可愛い女の子が観たいだけなら乃木坂だっていいわけだ。

そのどれに対しても不器用で、でもそのなかでもがき葛藤しながらパフォーマンスをしていくその危うさ・不安定さに魅力があり、それはアイドルにしかできない表現なんじゃないかなと思う。このグループ、特に1期生はその不安定さを強く感じさせる。そういう意味で、欅坂46はやはりアイドルなのだ。

また、どこまでがパッケージングされたもので、どこからが彼女たちの素の表現なのか、観る側に突き付けられる不安定さもアイドルの特徴だろう。
なにせ秋元某と天下のSONYが下積みゼロで世に放ったグループである。曲も歌詞もダンスも演出も、つくったのは日本の大人を代表するような人たち。この不器用さ、不安定ささえ、大人が意図して作り上げたものなのかもしれない。もちろんそこには商業的戦略も含まれる。または演者自身、それを利用する強かさをもってそこに立っているのかも。ファンやオタクたちは、そのへんをどう割り切っているのだろうか。それとも割り切れず不安定なまま応援することにまた魅力があるのか。

もしかしたらこのグループは誤解されているのかもしれない。どんな意味合いにおいても。

以上、ロクに知りもしないニワカの深読みでした。
ドキュメンタリー映画が公開されたら答え合わせもできるんだろうか。楽しみ。