海辺のカラス

四国高松で暮らすことになった僕の家出少年的日誌と釣行記

心の家出少年たちよ、魂の啓示を胸に刻め/小説『海辺のカフカ(上)』名言②

①はこちら

物語は展開しはじめ、徐々に複雑化してくる。でも注意深く読み進めれば、そこにはこの作品がどんな形のものなのか、そしてなにを示唆しているのかが見えてくる。

そして少なくともみかけは、穴に入ったときとほとんど変わらない状態で外に出てきます。つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんどなにもないんです。
p.182

図書館で夏目漱石『坑夫』を読んだ感想を話すシーンである。金持ちのぼんぼんが鉱山労働というすさまじい体験をしたにもかかわらず成長譚も教訓めいたこともなく終わるこの物語に対し、不思議と心に残る主人公。そこから人間はそんなに簡単に自分では選択できない、という考察に至る。

なにかが目の前に現れ、そこに飛び込み、くぐり抜けて、また出てくる。そこにどんな意味があったのかは明示されない。①で話題にした砂嵐の話とリンクする。よく自分探しの旅という言葉があるが、旅や家出でなにかが劇的に変化したりするのだろうか。よくインドとか行って人生観変わっちゃう人がいるけど、普通はそんなに派手なものじゃないということだ。もっと地味で、静かで、見た目にはわからない。でもきっとそこに入る前とは何かがちがっている。その程度なんじゃないかな。

ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける
p.190-191

難曲・シューベルトピアノソナタに対し、図書館の大島さんが語る場面。

完成されたモノにはない吸引力。それはなにも高尚なクラシックにのみ存在するわけではない。インディーズのロックバンドが魅力的なのは拙さ粗さで闘っているからだし、M-1がおもしろいのは芸歴10年未満というルールがあるからだ。完成された安定がほしけりゃ、JPOP聴いて中堅レジェンドばっか出てくる年末漫才特番だけ観ていればいい。吸引力とはニュアンスが異なるが、泡坂妻夫『亜愛一郎の転倒』のなかでも、日光東照宮 陽明門の逆柱を例に、完全さを避ける思考が描かれている。魅力的な作品に、不完全さは付きものなのだ。そしてそれは、人間にも言えるのかもしれない。

この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。
p.193

最初読んだときはいまいち理解できなかった。しかしまぁ、旅に出るとよくわかる。ひとり旅、あるいは家出したからといって、劇的なアトラクションが待ち構えているわけではない。大半が移動時間、待ち時間になることもザラ。退屈。

そのなかで本を読んだり、風景を眺めたり、あてもなく街を歩いたり、目についた銭湯に入ったり、いきなり思い立って床屋で髪を切ったり、ぼんやり考え事をしたりするのだ。退屈だが、べつに飽きない。コンビニ1軒ない境港で隠岐の島行きのフェリーを待つ3時間半、僕フェリーターミナル内にある銭湯に3回入ったからな。そしてあとあと、どんな観光地よりもその時間が心に残ったりするのである。まぁいまはスマホがあるから関係ないか。

やれやれなんのことはない、君は沈黙と暗闇におびえて縮みあがっている。それじゃまるで臆病な小さな子どもじゃないか。それが君のほんとうの姿なのかい?
p.223

山奥の小屋で数日間ひとりで過ごすことになった主人公が、山の夜の孤独をはじめて知るシーン。“カラスと呼ばれる少年”があざけるように言う。

僕がこれをはじめて経験したのは、小4のとき。ある体験プログラムでひとりキャンプを行った。火おこしに失敗した当時の僕は、あきらめてブルーシートでつくった不格好なテントに戻りシュラフにくるまった。
山の夜は暗い。たしか平成版の『釣りキチ三平』に「昔は泳ぐような闇を何度も経験した」という話がでてきたが、まさにそれ。目の前にかざした手のひらも見えない暗闇のなかで、身体が浮かび上がるような感覚と、異常に鋭くなった聴覚がなかなか眠ることを許さない。

この歳になりもう夜の暗闇におびえることはないが、それでも新たな種類の孤独に出会うとき、突如おびえはやってくる。世界に居場所がなく孤独に慣れたカフカ少年に、大島さんは言う―

「しかし孤独にもいろんな種類の孤独がある。そこにあるのは君が予想もしていないような種類のものかもしれない」
p.194

そんなはじめての孤独とおびえに直面したとき、カラスと呼ばれる少年が、大島さんが、そしてこの本が、僕らを少し救ってくれる。

すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。
p.227

海辺のカフカ』を読み進める上で大変重要な一文。たぶんこの作品のテーマのひとつが集約されている。想像力は人生を豊かにします、というレベルではなく、想像力を欠いたところには悲劇が生まれうるのだ。これについてはこのあとも何度もでてくる。

そのほかにどれくらいたくさん、僕の気づかないことや知らないことが世の中にあるのだろう?そう思うと自分が救いようもなく無力に感じられる。どこまで行っても僕はそんな無力さから逃げきることはできないのだ。
p.233

無数の星空を眺め、再び主人公は恐怖に駆られる。これほどたくさんの星の存在に気づかなかった己の小ささを知る場面。

知識と経験値をどれだけ積み上げたところで、自分が知らないこと、できないことは世の中にいくらでも存在する。得意なこと、好きなジャンルであるほど『知らない』を認めることは難しい。しかし、旅に出て井のなかから一歩出ると途端に現実を突きつけられる。自分が大した存在でないことを思い知らされ続ける。しかし、傷つきながらそれを受け入れていかなければならないのだ。

だから僕は、自信に満ち溢れた人がどうもニガテである。そこにある不要な想像力を排除できる器用な生き方にうまく順応できない。えらい人とか、男を評価対象としてしか見ていない女性とか、その逆の男とか。自らも実は大したことないのかもしれない、と思ったりしないのだろうか。それとも自分の役割を演じているだけなのだろうか。こう書いている僕も、もしかしたらプライドが高い一面があるのかもしれない。そう思うと、不用意に文章を書くのも恐ろしくなってくる。

目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ。君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツコツコツと
p.254

ようやくきましたナカタさんパート。この小説でもっとも胸糞悪い章の、もっとも胸糞悪い奴の科白からの引用だが、不思議と真に迫ってくる。闘う勇気をくれる文。

ギリシャ劇にはコロスと呼ばれる合唱隊が登場するんだ。彼らは舞台の背景に立って、声を揃えて状況を解説したり、登場人物の深層意識を代弁したり、ときには彼らを熱心に説得したりする。なかなか便利なものだよ。僕のうしろにも一組いればいいのにとときどき思う」
p.267

ギリシャ悲劇について語る大島さん。ここ非常に重要。なぜならこの物語の謎のひとつ“カラスと呼ばれる少年”とはいったい何なのか、に対するヒントだからだ。つまり“カラスと呼ばれる少年”は、主人公・田村カフカのコロスなのだ。

ギリシャ悲劇を下敷きにしているという『海辺のカフカ』はいわば舞台劇であり、読者はその観客である。大島さんの言う“僕のうしろにも一組いればいいのに”は、見ようによってはメタ発言ともとれそうな科白である。蜷川幸雄の舞台版でこれに触れられていなかったのはちょっと残念な気がする。

僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない
p.280

①で書いた、昨日とは別の世界で生きていく気構えとリンクする。こうした後戻りができないポイントはこれまでいっぱいあった。たぶん誰しもそうだろう。

それに対して、先へ進めないポイントというのはなんだろう。受験や就活で落ちたとか、好きな子にフラれたとか、これ以上いまの会社で働けなくなったとか、そういうことだろうか。それなら長い目でみれば進んでいくことになるよな、と思う。20歳の時点で時が止まった佐伯さんのように、先へ進めなくなる体験がこれから訪れるのだろうか。

 

 大変長くなってきたが、次回上巻のパート③に続く

引用はすべて 村上春樹著,『海辺のカフカ(上)』,新潮社,2002年 より